悪いという観念がない時代、各人は湧いてきた思いを瞬時に表現していました。
そして全ての表現された肯定されていました。
否定的な観念は全くありませんでした。
思ったと同時に起きる場、否定のない完全な調和の場のため、時間も距離もありませんでした。
この時代のことをインドではサトユガ。聖書ではエデンの園と呼ばれています。
それから人は表現されたものに対して判断するようになりました。
これは聖書では善悪の知識の実として出てきます。
自分が喜びで表現したものが、悪いこと、つまら無いものと判断されてしまう辛さは誰でも経験済みだと思います。
その辛い思いが残っていると、次に表現する時にためらいが起きます。そこから時間が生まれました。
そして、自分の表現の思いを抑えるということが起きました。
その思いは純粋なエネルギーです。
エデンの時代、そのエネルギーは瞬時に表現され消化されていましたが、判断が起きてからは抑圧するということが起き始めました。
その抑えられたエネルギーは自分自身の内側に蓄積されます。
元々は無邪気で純粋な表現のエネルギーは、抑圧されることでイライラ感のエネルギーを帯びます。
そこから様々な不快なエネルギーが生まれます。
表現できない悲しみ、早くしたいという焦り、ずっとこのままなんじゃないかという恐れ、自分がいけないんだという自己否定。やけっぱち。
そして、抑圧を重ねることで、そのエネルギーはブロックのような固い塊になります。
この溜め込まれた純粋な動機とそれに付着する不快な感覚は、表現のエネルギーのため内側で振動しながら少しづつ表面に上がってきます。病はこのエネルギーブロックの表面化の一例です。
東洋医学では、感情と臓器は関連していると考えられています。例えば、怒りは肝臓、悲しみは肺、恐れは腎臓。
その観点から言えば、病は今まで内側深くにあった抑圧されたエネルギーが解放される最後の時です。
未消化のエネルギーブロックは、DNAとして先祖から子孫へと遺伝子します。
これを読むと抑圧は良くないと言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
私は以前、怒りや批判的意見をそのまま表現していました。
それは、適切な解放方法ではありませんでした。
それを、表現することもせず、抑圧もせず、別のことで気を紛らわせることもせず、ただ感じることで解放できます。
それが一つの適切な方法です。
最後に、なぜ人は判断をするようになったのか、私の考えを書きたいと思います。
聖書では、それが罪となっていますが、私はただ全てを経験したい、知らないことを学びたいという意識の進化の次の段階に入っただけのことと思います。全てが完全な調和でやすらぎしかない世界の無限の自分が、不快感の世界で有限な自分を経験し、また無限の自分に氣づいていくゲームです。